賁卦上九:装いの極みとは?「白賁、咎なし」――ありのままの姿への回帰
山火賁の上爻(上九)には「白賁、咎なし」と記されている。飾り気のない素の状態こそが最上であり、装飾を極めた先にある答えが「飾らないこと」だというのだ。本稿では、人生の境地と審美の究極という視点から、この上九の叡智を読み解いていく。
山火賁の卦を最後まで読み進めると、とても興味深いことに気づくはずだ。
初九:足を飾り、身だしなみを気にし始める段階。
六二:髭を飾り、加減を心得る段階。
九三:つややかに整えすぎて、少しやりすぎな段階。
六四:白い馬に白い車、質素な美しさに立ち返る段階。
そして上九になると、爻辞はたった三字——「白賁、咎なし」となる。
白賁(はくひ)——それは、真っ白で飾り気のない様子のことだ。
見ての通り、一巡りして、また元に戻ってくる。
飾り方を知らない状態から、一生懸命飾るようになり、飾りすぎるようになり、引き算の大切さを知り、質素な美しさを経て、最後には——もう飾らないことを選ぶ。
これが山火賁の卦が私たちに教えてくれる答えだ。飾りの最高の境地は、飾らないことなのだと。
なぜ「白賁」が最高の境地なのか?
「白賁」は、怠けているわけでも、貧しいわけでも、おしゃれができないわけでもない。
それどころか、良いものを見て、良いものを試し、良いものを手に入れたうえで、自らシンプルさを選んだ姿なのだ。
選ぶ余地すらないのとは、まったく別の話だ。
第一の段階:飾り方を知らない。
社会に出たばかりの頃は、何もわからない。服の選び方も、話し方も、自分の魅せ方も知らない。野暮で、どこか不器用な状態。
これは「白賁」ではなく、ただの「未熟」だ。
第二の段階:一生懸命飾る。
コーディネートやメイク、話し方を学び、人に好印象を与える方法を身につけていく。
この段階はとても大切で、誰もが通る道だ。まず飾り方を学んでこそ、「飾らない」と言う資格が生まれる。
飾ることすらできないのに、「素朴に立ち返る」なんて言ったって、それは自分をごまかしているだけだ。
第三の段階:飾りすぎる。
多くの人がここで足を止めてしまう。飾れば飾るほど、持てば持つほど増えていく。ブランド品を身にまとい、見栄を張り、言葉も上手になる。
だけど、どこか——空しい。何かが違う気がするのに、言葉にできない。
第四の段階:引き算を始める。
次第に、自分に合うもの、合わないものがわかってくる。
少しずつ、手放していく。服は減り、言葉は少なくなり、人付き合いも狭くなっていく。
この段階を「簡(シンプルさ)」と呼ぶ。
第五の段階:白賁。
最後にたどり着くのは、最高の飾りは「自分自身」だという気づきだ。
ブランドで体裁を繕う必要も、肩書きで価値を証明する必要も、誰かに好かれるために機嫌を取る必要もない。
あなたはあなた。良いところも悪いところも、すべて受け入れる。長所も短所も、全部があなたなのだ。
この段階を「真(ありのまま)」と呼ぶ。
「できない」から「できる」へ、「多い」から「少ない」へ、「簡」から「真」へ。
これが山火賁の卦が示してくれる道なのだ。
「白賁」の人は、どんな人?
私は今まで、本当に「白賁」の境地にいる人たちに何人か会ったことがある。
彼らはお金持ちとは限らないけれど、必ず余裕がある。
有名人とは限らないけれど、必ず伸び伸びとしている。
口数は多くないけれど、一緒にいるとなんだか心地良い。
彼らには共通点がいくつかある。
一つ目は、媚びないこと。
好かれたいからといって、わざとらしく振る舞ったりしない。
見下されたくないからといって、体裁を繕ったりもしない。
好きでも嫌いでも、それでいい。私はこのままだから。
無関心なわけじゃない。ただ、自分を気にかけてくれない人の評価まで、気にしないだけだ。
二つ目は、肩肘を張らないこと。
笑うときは笑い、泣くときは泣き、弱音を吐くときは吐く。
キャラクターを演じたり、仮面をつけたり、体裁を気にしたりしない。
一緒にいるとすごく楽だ。だって、推し量る必要がない——彼は見たままの人なのだから。
三つ目は、自信の裏付けがあること。
なぜ「白賁」でいられるのか? 支えになるものがあるからだ。
それは読んだ本かもしれないし、歩んできた道かもしれない。経験してきたことかもしれないし、銀行口座の残高かもしれない。
とにかく、彼の価値は外見の飾りに依存していない。彼自身に、すでに価値があるのだ。
本当にお金持ちの人は、何を着てもお金持ちに見えるものだ。
本当に学のある人は、何を言っても説得力があるものだ。
本当にすごい人は、すごいふりをしなくていい。
四つ目は、温かみがあること。
「白賁」の人は、冷たいわけじゃない。それどころか、とても温かい。
自分を守るための鎧が必要ないから、心を開いて人に優しくできる。
見透かされるのが怖くないから、誠実でいられる。
そんな人と一緒にいると、思うはずだ——生きるって、こんなに楽でいいんだ、と。
どうすれば「白賁」の生き方ができる?
「白賁」は一朝一夕に身につくものではなく、一つの過程なのだ。
どうやってそこにたどり着くか? 三つのアドバイスがある。
一つ目のアドバイス:まず「飾る」という課題をきちんとこなすこと。
最初から「素朴に立ち返りたい」なんて言わないでほしい。それは怠けているだけで、境地なんかじゃない。
学ぶべきことは学び、練習すべきことは練習し、経験すべきことは経験する。
まず服の着こなしを学んでこそ、「何を着ても似合う」と言う資格が生まれる。
まず話し方を学んでこそ、「大巧は拙きに若い(大きな巧みは、下手に見える)」と言う資格が生まれる。
まずお金を稼いでこそ、「お金は重要じゃない」と言う資格が生まれる。
手に入れたこともないのに「手放した」なんて言うのは、自分をごまかしているだけだ。
二つ目のアドバイス:常に引き算をすること。
人生は足し算の過程でもあり、引き算の過程でもある。
若いうちは足し算:たくさん挑戦し、たくさん体験し、たくさん手に入れる。
年を重ねたら引き算:手放し、断捨離し、生活をスリムにしていく。
引き算し尽くして最後に残るのが、一番大切なものだ。
削ぎ落として最後に残るのが、本当に必要なものだ。
服は減っていくけれど、一枚一枚がお気に入り。
友達は減っていくけれど、一人一人が心からの付き合い。
仕事や用事は減っていくけれど、一つ一つに価値がある。
そんな生活こそ、本当の「洗練」だと思う。
三つ目のアドバイス:自分自身の「本色(ありのままの色)」を見つけること。
「白賁」は何もないわけじゃない。そこには「本当の自分」がちゃんといる。
あなたは誰?
何が好き?
何が得意?
どんな生活をしたい?
これらの答えがはっきりすれば、外のもので自分を定義する必要がなくなる。
自分が誰なのか、わかっているからだ。
あなたは、あなたの服でも、車でも、家でも、役職でもない。
あなたはあなたなのだ。
この揺るぎない自信は、どんな飾りよりも力強い。
最後に
山火賁の上九にある「白賁、咎なし」は、山火賁の卦の終点であり、最高の境地でもある。
「賁其趾(足を飾る)」から「白賁」まで、全六爻の道のりだ。
まるで人の一生のようだ——何もわからない無知な状態から、一生懸命体裁を繕うようになり、少しずつ手放していき、最後には本質に立ち返る。
この道は、誰もが自分の足で歩まなければならない。
歩みが速くても、遅くても。
向かう方向が正しければ、道が遠くても怖くない。
いつかあなたも、「白賁」の姿で生きられるように——
清らかで、落ち着いて、
媚びず、弁明せず、
ただそこにいるだけで、十分に素敵な人に。