風地観の上爻:人生の器量とは?「観其生」——自分を離れて自分を見るのが真の叡智
観卦の上爻は上九で、爻辞には「観其生、君子無咎(その生を観る、君子咎なし)」とある。これは自身の人生を、その渦中にいるのではなく一歩外から眺めること。高い視点で広く見通すこそ真の大きな器量だ。本稿は人生の境地の観点から、観卦上九の叡智を読み解く。
観卦は全部で六つの爻からなり、最後の爻は上九です。
初六は「童観」——子どものように世界を見る、表面だけを見て盛り上がる、という意味です。
六二は「窺観」——ドアの隙間から覗くように見る、視野が狭く偏見がある、という意味です。
六三は「観我生」——自分自身を観察し始め、内省する力が備わる、という意味です。
六四は「観国之光」——外の世界やトレンドを観察し、大きな方向性を見据える、という意味です。
九五は「観我生」——高い地位にいる人が自分自身を省みる、という意味です。
上九になると、「観其生」に変わります。
「我(自分)」が「其(その人)」になる。どういうことでしょう? それはもう自分の内側にとらわれず、一歩外に出られた状態です。もっと高い場所に立って、他人の人生を見るように自分の人生を眺められるようになるのです。
これが「格局(器の大きさ)」というものです。
ほとんどの人は自分の感情に生きている
こんな経験、ありませんか——
当時は天が崩れ落ちるかと思ったことも、数年経ってから振り返ると、大したことなかった。当時は心底憎んだ人も、数年経って思い出すと、どうでもよくなっていた。
事柄そのものが変わったのではなく、あなたの立ち位置が変わったのです。今の自分から過去を見れば、はっきり見えるようになるのです。
でも問題は、当事者になっている間は、どうしても見えないことです。
上司に叱られただけで、ひどく委屈して天が崩れるように感じる。恋人とケンカしただけで、もう生活が成り立たない気になる。少し損をしただけで、人生に希望が持てなくなる。
なぜでしょう? あなたがその渦中にいるからです。感情に包まれて、目の前のことしか見えなくなっているのです。
山の麓に立っていれば、目の前の数本の木しか見えません。山の高さも世界の広さも、その程度だと思い込んでしまいます。
山の頂上まで登って下を見れば——あの木々はただの小さな森に過ぎず、山の向こうにはまた別の山があるとわかるのです。
「自分を離れて自分を見る」とはどういうこと?
「観其生」の「其」は、自分を他人のように見なすことです。
今、あなたとそっくりな人がいて、あなたと同じ経験をし、同じ選択に直面していると想像してみてください。あなたが傍観者として彼を見たら、どう思うでしょう? どんなアドバイスをするでしょう?
きっと、自分が今抱いている考えとはまったく違うアドバイスをするはずです。
なぜでしょう? 彼の問題は自分の問題ではないので、感情を交えずに見られるから、はっきりと見えるのです。
例えば友達が失恋したら、「大丈夫だよ、きっと過ぎ去るよ、もっといい人が待ってるよ」と励ますでしょう。
でも自分が失恋したら、「もう二度と愛せない、私の人生はこれで終わりだ」と思ってしまう。
道理は頭ではわかっていても、自分のこととなるとどうにもならない。
「観其生」とは、自分を他人のように見なすこと。傍観者の視点で、自分の人生を眺めることなのです。
「観其生」の力を養うには? 3つの方法
自分を離れて自分を見るのは、言うは易く行うは難しです。でも、まったく方法がないわけではありません。3つの方法を紹介します。
1つ目の方法:「3年後の視点」です。
何か問題にぶつかったら、自分にこう問いかけてみてください。「3年後、このことはまだ重要だろうか?」
答えが「重要ではない」なら、今もそんなに深刻に受け止めなくていい。手放せるものは手放し、次に進めばいいのです。
今のあなたを眠れないほど悩ませていることも、3年後に振り返れば、取るに足らないことがほとんどです。そうなら、今の自分がなぜ自分に厳しくしているのでしょう?
2つ目の方法:「三人称で考える」です。
悩むことがあったら、「私はどうすべきか」と考えるのではなく、「友達がこの状況になったら、私はどうアドバイスするだろう」と考えてみてください。
すると、あっという間に頭がすっきりするはずです。どう選び、どう行動すべきか、はっきりわかります。
あとはその答え通りに行動するだけ。自分のことだからといって、曇った判断をしないようにしましょう。
3つ目の方法:「レンズを遠くに引く」です。
自分の人生を映画だと想像して、あなたは映画館の客席に座っている観客だと思ってください。今上映されている場面は、映画全体のほんの一部に過ぎません。
その場面は苦しくて辛いかもしれませんが、それがすべてではない。その先にはまだ長い物語が続いています。
観客の立場で見れば、この場面はいつか過ぎ去り、その先には別の展開が待っているとわかるのです。
自分を離れるのは、逃げるためではない
こう思う人もいるかもしれません。「自分を離れるって、つまり何もしないで諦めるってこと?」
違います。
自分を離れるのは、自分の人生に無責任になるためではありません。それどころか、もっとはっきりと状況を見て、より良い選択をするためなのです。
「当局者は迷い、傍観者は清し」。外から見てこそ、全体像が見えます。全体像が見えてこそ、正しい意思決定ができるのです。
しかも自分を離れてみれば、あんなに苦しめられたことも、実は大したことなかったと気づくでしょう。気持ちも楽になり、余裕も生まれます。
これは逃げではなく、「释然(心がすっきりすること)」なのです。
最後に
観卦が初六から上九までで語っているのは、実は一人の人間の認識が成長していく過程です。
表面的な盛り上がりだけを見る「童観」から、偏見を持って見る「窺観」、自分を省みる「観我生」、大きな流れを見る「観国之光」、そして自分を離れる「観其生」へ。
段階ごとに視点が高くなり、視野が広くなっていきます。
人生の修練とは、実は自分をどんどん高い位置に引き上げていく過程なのです。
高い場所に立つほど、遠くまで見渡せて、心の中がはっきりしてきます。
最後には、多くのことが本当はそんなに重要ではないと、わかるようになるでしょう。