物事がうまくいかない時の調整法?諸葛亮の東風借りに隠された古人の知恵を読み解く
要旨:物事がうまくいかない時、どう調整すればよいか。諸葛亮が東風を借りた真相から、古人が窮地に対処する真の知恵を見る。
さて、三国志の時代、曹操は八十万の大軍を率いて南下し、孫権と劉備の連合軍を赤壁の地に追い詰めた。船は鉄鎖でつなぎ合わせて水上の歩行者天国のようにし、一気に長江を渡って江東を踏み平らげようと待ち構えていた。
周瑜は軍幕の中を臼のようにグルグル回っていた。火攻めの案はいいが、厳冬の長江は毎日北西風が吹く。火をつければ先に自分たちの船が燃えてしまい、曹軍に「温かい贈り物」を届けるようなものではないか。彼は焦って食事も喉を通らず、ついにはベッドに横になって病気のふりをした。
その時、諸葛亮がやってきて、「自分が東風を借りてこよう」とひそひそと告げた。七星壇を建て、自分が髪を振り乱して壇の上で祈祷を行うというのだ。周瑜はそれを聞くとたちまち元気になり、病気も治り腰の痛みも消えたかのように、すぐさま部下に命じて要求通りに壇を組み立てさせた。
後の出来事は皆さんご存じだろう。三つ更(真夜中)になると果たして東南風が吹き始め、黄蓋が偽降伏の船団を率いて火を放ち、曹操の連環船を元宵節の灯籠祭りのように燃やし上げた。曹軍は大半が死傷し、しょんぼりと北方へ逃げ帰った。
だが『三国志・呉書・周瑜伝』を紐解けば、はっきりとこう書かれている。「瑜の部将・黄蓋は曰く、『今や賊は多く我が軍は少なく、長く持ちこたえるのは難しい。しかし操軍の船艦が首尾を接しているのを見れば、火を放って逃がすことができる』」。最初から最後まで諸葛亮の字は一言も出てこない。火攻めを提案したのは黄蓋で、指揮を決めたのは周瑜だ。東風?それは長江で毎冬ある小さな出来事に過ぎない。
考えてみれば、周瑜は江東で水軍を何年も訓練してきたのだから、どんな日にどんな風が吹くかはお見通しだった。老北京が春のいつ黄砂が吹くかを正確に知っているのと同じくらいだ。彼の「病気」なんてものは、風が来るのを待つ間の不安症に過ぎない。諸葛亮はただ、知っていながら知らないふりをして、彼に下り坂を用意してやっただけのことだ。
ここまで話すと面白くなってくる。物事がうまくいかない時、どう調整すればいいか?周瑜は専門家で、気象も軍事もわかっていたが、いざとなれば悩むこともあった。そんな時は、既知の法則の中から答えを探すことを学ばなければならない、むやみに焦るのではなく。形勢をどう見極めるか?目の前の北西風だけに囚われず、その土地の古い経験や古い法則をもっと考えるべきだ。答えはとっくにそこに隠れているかもしれないのだから。
羅貫中が『三国志演義』で諸葛亮を雨風を操る仙人のように描いたのは、実は庶民の素朴な願いでもある——頭のいい人がすべての難題を解決してくれることを願う気持ちだ。だが本当の歴史には、何の前触れもなく借りてきた風など存在しない。あるのは、長年の観察と事前の準備の結果だ。正しい決断をするにはどうすればいいか?突き詰めれば、前もって準備を整え、チャンスが来たらしっかりつかむことだ。風が吹き始めてからマッチを探していては遅い。
周瑜が度量が狭くて諸葛亮に怒り殺されたという説に至っては、なおさら小説の脚色だ。正史の周瑜は「性度恢廓(度量が大きく広々としている)」で、心は馬が走り回れるほど広かった。老将の程普が彼と仲違いしていても、彼は気にも留めず、最後には程普を心から感服させた。程普は「周公瑾と交わるのは、濃い酒を飲むようで、知らず知らずのうちに酔いしれてしまう」と言ったという。
だから、東風を借りるという話は、本質的には綿密に計画された気象戦争なのだ。物知りが自然の法則をつかみ、神秘主義の包装を少し加えただけで、千年も語り継がれる伝説になった。本当にすごいのは「風を借りる」能力なんかではなく、前もって法則を見抜き、風が来るのを待つ忍耐力なのだ。