困ったときどうする? 伏生が乾卦九二から見出した学業上達の道
困難に遭ったらどうするか?西漢の伏生が経典を伝える道中で、乾卦の九二から学業を研ぎ澄ます真の奥義を見出したさまをご覧あれ。
前漢の初年、伏生は済南の故郷にある土レンガ造りの家に隠れ、机の上に置かれた端が毛羽立った『尚書』を前にして、憂いで髭がもつれてしまいそうだった。
言ってみればついてない話で、彼はもともと秦代の博士で、腹に『尚書』の全編をたたえていたが、あいにく秦末の戦乱に見舞われ、書を抱えて深山に何年も隠れていた。世の中が平和になってから竹簡に手を触れてみると、ありゃあ、何枚もの編み紐が腐って切れ、文字もすり減って判別しにくくなっていた。彼は記憶をたよりに大半を補ったが、どうしても詰まってしまう箇所がいくつかあり、どう考えてもしっくりこなかった——前後の文脈がつながらなかったり、語調が上古の賢臣の言葉らしくなかったりしたのだ。
この事が他の人にあれば、ごまかして済ませたかもしれない。どうせ世の中に『尚書』をすらすら読める人など数えるほどしかいないのだから。だが伏生は頑固者で、先聖に申し訳が立たないと思いつめ、飯も喉を通らず、眠りも浅く、頭の中は「困った時はどうすべきか」でいっぱいになり、目のくぼみが青くなるほど自分を追い込んでいた。
ある日、彼はあぜ道にしゃがんで息を切らしていると、隣村の老農夫が田んぼの端にしゃがんで草を抜きながら、口ごもるように言うのが聞こえた。「龍が空に飛び立つには、まず田んぼでじゅうぶんな時を過ごさねばならん。根をしっかり張ってこそ、東風の力を借りられるのだ」と。
伏生はぎょっとして、昔読んだ『易』の乾卦九二の「見龍在田、大人に見(まみ)るるに利あり」をふと思い出した——以前はこれを大人物が世に出ることだと思っていたが、今、あぜ道に立って風に吹かれ、たちまち腑に落ちた。龍が田んぼにいるのは、ぶらぶらしているのではなく、大地に根ざし、底力をためているのだ。いわゆる「大人」とは、高官厚禄を得る人とは限らず、自分を目覚めさせてくれる人、自分が探し求めている「正しい手本」のことなのだと。
彼は以前、ただひたすら一人で頭を悩ませていたが、それでは自分を書斎に閉じ込めているようなものではないか?物事がうまくいかない時にどう調整するか?外に出て、物わかりの良い人に尋ね、田んぼから生きた証拠を探さねばならない。
やると決めたら即行動、翌日には彼は乾パンを背負って出かけた。前朝の古い出来事をまだ覚えている老人たちを尋ねて話を聞き、昔の治水の伝説や、上古から伝わる民謡を語ってもらった。斉郡にたどり着いた時、80歳を超えた老楽師に出会った。老人は目は不自由だったが、記憶力は驚くほど良く、上古の祭祀の調べを口ずさんだところ、その歌詞が彼が詰まっていた『堯典』の一篇の大半とぴったり一致した。
伏生はその場で太ももを叩いて喜び、何ヶ月も胸につかえていた憂さが一気に吹き飛んだ。正しい決断を下すには、部屋に座って頭をひねって出てくるものでは決してなく、まず「田」に身を沈め、根を張り、それから頭を上げて道しるべとなってくれる人を探せば、道は自然と開けるものなのだと。
彼が済南に戻り、再び『尚書』を整理し始めると、筆の運びがすらすらと通じるようになった。後に山東の読書人たちが、伏生が『尚書』を講じられると聞いて、相次いで書箱を背負って弟子入りに来た。彼が杏壇の下で経典を講じると、陽光が木の葉の間を抜けて竹簡に落ち、字行の間を小さな龍が泳いでいるように輝いた。
誰かが学問をするコツを尋ねると、彼は院外の田んぼを指して言った。「慌てて雲の上に飛び立とうとするな。まず田んぼでしっかりと根を張れ。出会うべき人も、通じるべき理も、自然とやってくるものだ」と。